第一幕
立ち上がる水兵




戦艦セバストポリの水兵達は、甲板の上から、また通路から、窓から、
黒海の遠くにぼんやりと形を見せる陸地を眺めていた。
離れているのか近付いているのか、良く感じが掴めないが、船は動いている。

「持ち場に付け!」

士官が叫ぶ声を聞いて、皆散って行く。
右舷の少し高くなった場所に残るのは監視役のレオナードとアスリだった。

「なあアスリ……」
「言いたい事は分かるよ」

アスリは水兵服の上からレオナードの背中を擦ってやった。
昨日、港で士官連中の買出しをやらされたレオナードは、帰ってきたら遅いと言う理由で
背中をニ度も強く足蹴されたそうだ。

彼だけでなく、士官に酷い扱いを受けている者は多いに違いない。
アスリは、ただまだその被害を受けていないだけに過ぎないのだ。

「ネルチュクは士官の違法行為を咎めて一度蹴られて、その次の日にニ度殴られたそうだ」
「……」

船が止まったのと同時かどうか、アスリの擦る手も止まった。

黒海、テーンドル湾の沖合い停泊地にて、戦艦セバストポリは停泊した。
ここで一晩過ごし翌日武装の試験を行う事になっている。

艦橋では、貴族出のメフェーニン艦長がカイザル髭を撫でながら、技術士官のやる気の無い報告を聞いていた。
視線は士官ではなく、艦橋の窓の先の空を向いている。

「……で、この艦がどうしろと?」
「司令部はぁ、どうも四十口径連装砲の試験を求めれ、求めております」
「バスボア、その通りにやれ」
「兵站部門から、補給が不充分ではないかと言う声が上がっておりますが」
「どうせ三日で済む事だぞ?それに水兵なんて奴らは食うだけ食う、たまには節制でもすれば良い」

メフェーニンもやる気のある様な素振りは見せなかった。
それより、新聞の革命騒ぎの記事を読みたくて仕方ない。
自分の家が下賎な連中に焼かれちゃたまらぬと思いながら、指揮台の上の新聞に手を伸ばした。
周りの士官は水兵たちを怒鳴り飛ばした話を面白おかしく語っている。


—— ◇ ——


昼食の時間、水兵達は驚いた。

「何だこれ」
「パンにカビが生えてる!」

狭い食堂で、水兵達の動揺の声が広がった。
また、自分の寝床で食べようと戻っていた水兵達も戻ってきた。

「炊事係!」
「俺達はただ配っただけだよ!俺達も同じものを食わされる!」
「とにかくどう言うこったよ!」

前掛けをした炊事係達も、両手を上げながら不満をあらわにしている。

シリャウギンと言う士官が騒ぎを聞いて食堂に入って来て、それで、決まった言葉を口に出した。

「何だ!何騒いでる阿呆共!」
「少佐!パンにカビが、スープも味が変で……」

シリャウギンは机の上に視線を一度落としたが、直ぐに水兵達に戻した。

「こんなもん食えるだろう!何を騒ぐか!」
「そ、そんな」

ネルチュクと言う水兵が声を上げた。

「前の時はさすがにこんな事は無かった筈です!おかしい!」
「何ぃ!陛下より下ろされた食料を……」

シリャウギンはネルチュクの所に飛んで行こうとしたが、
食堂は狭いし水兵は多いしネルチュクは奥の方に居たしで、留まった様だ。

「ふん、お前の顔覚えて置くからな……え!覚えるまでも無いか、ネルチュク!」
「……」
「阿呆共!食いたくなければ食わなければ良いさ!ただそれで腹が減って仕事をしないてのは許さんぞ!」

シリャウギンはそう言ってから、制帽を正して食堂室から出て行った。

彼は水兵の食事なんかどうでも良いのだ。
士官には士官の食事が有る。

ネルチュクの肩が水兵達にポンポン叩かれた。
前に一度殴られニ度蹴られながらも、勇気ある行動を見せたのだ。
彼は水兵達の中では英雄の様な存在だったが、しかし誰もネルチュクの真似をしなかった。

「一体誰がこの船を動かしてるってんだ」

ソラウニンはそう言って、仲間から賛同する言葉を得られたけれども、
しばらく考えて何か怖くなった。
何か、と言うだけで、それが実際何なのか分からない。


—— ◇ ——


捨てられる食事を見るに、水兵の殆どはパンもスープも食べず飲まずだった。
この調子では夕食も大変そうだ。

「今度のは酷いぞ……」

機関部の、地獄の様な音の中で、ネルチュクは一人つぶやいた。
周りの水兵達は仕事を続けているが、初日だと言うのに疲れ切った顔をしている。

皇帝の軍隊がモスクワで市民に手を出した一月のあの日から、
ロシアのどこでも虐げられていた人々は新しい何かを求めて戦っているし、
貴族層は一部を除いて権力を維持しようと醜く踏ん張っている。

兵士としてネルチュクは市民を攻撃したくなかった。
遠く離れた場所では日本と戦争をしているけれど、それも戦いたくなかった。
だけれども命令があればそれが全てになる。

「だが……そうだ、ソラウニンが言ったとおり、俺達が」

そこまで言って、ネルチュクの口は止まった。
こんな事を思うのも口に出すのも初めてだった。

「ああ、何もありません様に」

ネルチュクは、とにかく悪い事が何も無ければ良いと思った。
でもまたその次の瞬間に、先ほどの様な思いがこみ上げて来るのだった。

「……何故だろう」

(続く)