第二回コミュ雑小説大会 前半戦同賞一位作品「ゴミ」改作

君らが意識しなくても、たとえ歪んでいても、そこに居る


第一話「くず」


三月中旬

埃が溜まってくたびれた印刷機。

それを睨み付ける作業員が居た。

「酒井ィ、見たって動かねえぞ」
「そんな事は知ってるさ」

もう、三日も仕事らしい仕事をしていない。
古ぼけたトタン建ての印刷所には何だって埃が溜まる。
あの資材運搬のフォークリフトも、さっきの印刷機も、もう使っていない活字版も、
何もかも埃まみれなのだ。

「酒井忠盛」と名札の付いたツナギの作業服も、傷やインクのシミが至る所に付き、
もう何もしたくないと言う様子だった。

裏の社宅だって、明らかに基準を満たさなくなった古アパートなのだ。

そんな中で、工場の中に、のそりのそりと現れたのは大木社長だった。
白髪交じりの頭、顔が青く明らかに血が足りなさそうだった。
ただでさえ遅い足取りも、今日はいつもより重い。
酒井が来た頃はもっと元気だったのだが…

「皆聞いてくれ、昨晩から此処は人手に渡った、社宅も機材も、人以外は全てだ」

酒井も、他の数人の作業員も、もう笑いも泣きもしなかった。


—— ◇ ——


「今ーわーかれーの時ー♪」
「飛び立とうーみーらい信じてー♪」

体育館から響く歌声。
それが終わると万雷の拍手。

そして校長の有りがたいお話。
「皆さんが…将来…大きな花を咲かせ…社会に貢献できる…」

「ふん…」

体育館の外、フェンスを挟んで県道の桜並木の下。
酒井は体育館から漏れて聞こえる卒業式の声を恨めしく聞いていた。
頭には痛々しくガーゼが付けられている。

また、大きな校長の声が聞こえる。
「春は…旅立ちの季節です…大きく、まだ真っ白な未来へ…」

確かに旅立ちの季節である、だがただの旅立ちではない。
別れ、年度末、決算、切り捨て…

「どうせ…あの卒業生の内で大成する奴なんて…ん」

野良犬が男の周りを吠えながら周っている。

「ウー!ワンワン!ウーワン!ワン!」
「うるさい!お前まで俺を…!」

犬に怒鳴っても何にもならない。
酒井はそそくさと立ち去った。

作業所の倒産、給料の未払い、社宅追い立て…何もかもがオーラを黒く染めている。

所属の印刷所は潰れ、社宅は追い出され、それでも
酒井は役所の世話にはならんと、浮浪生活を始めた。
役所が何もしない事を良く知っていたのだ。

酒井は、大それた悪事なんぞした事は無いが、良く褒められる程の事もした事は無い。
ただ、無気力と漠然な圧力の中で、何となく高校の門を潜り抜け、長野から東京に上った。
だがそれも五年でこれである。

そっと、頭のガーゼに酒井は手を当てた。
こうなった理由は、数日前に遡る。


—— ◇ ——


やくざ風の男に道で絡まれていた、頭の足りなさそうな男を庇ったのが始まりである。

「ううん…いや…その」
「だからぁ、僕ゥ、聞いてる?…此処に来て欲しくないんだよ…」
「な、何で…?」
「てめえが居ると臭いからだよ!しかもどもりで!頭が足りない!街の公害だ!」

何とも、見過ごせない物を感じ、男は割り込んだ。

「なあ、止めなさいよ」
「何だてめえ!」
「彼が何か悪い事したのか…」
「ああ?こいつの存在自体が害悪だな!」

理由になっていない。

「だからこの人がどうかしたのか」
「分かんねえのか!もう一度言ってやるよ!悪臭でどもりで馬鹿で・・」
「それは理由に成らないじゃないか」
「黙れ!このクズ!」
「うっ…」

鉄拳が飛んできた。

鉄拳と共に理解できたのは、このヤクザは、ただ腹いせに精神障害の男を
いじめていた、と言う事だけだった。

助けてくれない。
誰一人助けてくれない。

ヤクザは何度も、ダウンした此方を殴り蹴り、罵詈雑言を浴びせかけてくる。

「え!こら!聞けクズ!街の、公害っていうのはな、こう言う劣等みたいな…」

道行く者は皆、誰一人、こちらに眼を向けない。
軽い精神障害と思しき男は腰を抜かして壁によたれている。

救いなのは、遠くからサイレンの音が聞こえてきた事だ。

「おっと…もう二度とこの辺りを歩くんじゃないぞ!キチガイ!死ね!」

ヤクザは、逃げ際に精神障害の男も一発殴って、去っていった。

「う…痛い…」

助けない方が良かったのか。
警官に支えられながらパトカーの後ろ座席に寝かされ、救急車を待つ間、
ずっと空間が歪んで見えた。

追い討ちを掛けたのは警官二人の囁き声の会話である。

「…馬鹿だな、キチガイを庇うなんて…」
「偽善だな、賞状でも貰えると思ったのか?おい、このキチガイの所属している施設何処だ?」

ああそうか、庇うのは馬鹿なのか。
弱者を庇うのは偽善なのか。

酒井は、故郷の長野で、同じような光景を見ていた。
中学生の頃、不良が特別学級の生徒を虐めていた光景を見ていた。

虐められていた生徒は、こちらに助けを求める視線を投げかけて来た。
しかし、酒井には不良に立ち向かう気力がなく、その場を離れていた…
あの時の思い出は今でも、酒井の心のトゲの一つだ。

それを振り払う為に、見過ごせなかったのかも知れない。
だが結果はご覧の通りだった。



—— ◇ ——


翌日に病院を出た頃には、男はひねくれの塊になっていた。
あのキチガイは何処に行ったか知らない。

「…」

そんな事を思い出しながら、男は桜並木の河川敷を歩いていた。
もう犬も居ない。

護岸壁の下はゴミ溜の様で、かなりこの川は環境が悪いらしい。
ずっと遠くまで見ても花見やら散歩やらの人はあまり居ない。

「…ここなら邪魔されずに」

男はベンチに寝そべった。

「あ…あ…」
「?」

聞き覚えの有る声がする。

「お前…」
「この前の人…」

酒井は、少しばかりネガティブな気分が吹き飛んだ。
この男がどうなったのか、少し気になっていたのだ。

「お前…施設に戻ったんじゃないのか」
「元の施設…潰れた…それで追い出されて町歩いて殴られて」
「そうか、お前は徘徊どころか住む場所も無かったのか…」

自分と同じ状態にこの男は有る。
だが、どうすれば良いのか、互いに分からないのだ。

「お兄さん、助けてくれて…その後新しい…保護所行って…」
「そこはどうなんだ?良い所か?」
「駄目…婦長さん…おかしい…あの人、僕よりおかしい…」
「…」

男の手を見ると、痣が有る。
酒井は、この男はどんな事をされているのか、薄々感づいた。

「…お前、どうして頭がおかしいんだ?」
「預けられる前に…ママから聞いた…砒素ミルク…飲んで、変になった」
「…明永の砒素ミルク事件か」

あの頃のニュースを思い出せば、行政は「しっかり、被害者の一生を保証する」と
言っていたが…

「お前、国や会社から金は?金は出ないのか?」
「…?」
「知らないのか?出た筈だぞ?」
「…?」

きっと、この男は行政の目から零れたか、施設の奴に金を取られたか・・
可哀想に…と、ふと思ったが…

「(この思いも偽善なのか?)」

だが、酒井はこの男を警察などに連れて行ってやる気は無い。
元の場所に戻れば、また虐待されるだろう。
警察は偽善とせせら笑うだろう。

その後、酒井はベンチに寝そべり、キチガイは桜の落ち葉で遊んでいた。

背の後ろで騒ぐキチガイ…

「(…いつか、自分でどうにかなるだろう)」

確証は無かった。