初投稿です。
まずみなさんは隠し武将をだされる時、漢字がどこにあるか解らないと思っているので、各武将の漢字の場所を書きたいと思います



韓・信(カンシン)
「か」の一番右下に「韓」 
「し」の一番右下から三個上に「信」


項・籍・羽(コウセキ)
「こ」の一番左上から右へ5個進むと「固」の字があるので、この字の縦列にあわせて下へ進めば「項」
「せ」の上から三段目、そこから右へたどっていけば「籍」
「う」の一番上から右へ4個目に「羽」


王・翦(オウセン)
「お」の一番右上から左へ4個進めば「王」
「翦」の場所は難しい。この字は「せんていばさみ」の「剪(せん)」の中国文字である。
まず場所は「その他」の一番左上から右へ6マス進むと「陀」の字があるはず。その字の縦列にあわせて下に進んでいくと、全体の真ん中あたりに「翦」あり(解らなければ、陀にあわせて下に進めばよい)


張・良・子房「チョウリョウ」
「ち」の一番左上から右へ4マス、下へ4マスに「張」
「り」の一番右上から左へ4マス、下へ3マスに「良」
「し」の一番右上から左へ4マスに「子」
「ほ」の一番右上から左へ7マス進み下へ4マスに「房」


劉・邦・李「リュウホウ」
「り」の一番右上から右へ3マス、下に1マスに「劉」
「ほ」の一番右上から左へ4マス、下に3マスに「邦」
「り」の一番左上から右へ4マスに「李」


管・夷吾・仲「カンイゴ」
「か」の一番右下から上へ3個(韓の上)に「管」
「い」の一番左上から右へ7マス目に「夷」
「こ」の一番右上から一個左下に「吾」
「ち」の一番右上から左へ8マス、その下に「仲」


張・儀「チョウギ」
「ち」の一番左上から右へ4マス、下に4マスに「張」
「き」の一番左上から右へ9マス、下に3マスに「儀」


楽・毅「ガクキ」
「か」の一番左上から右へ6マス進むと「価」の字があるので、そこから縦列にあわせて下に7マス進めば「楽」
「き」の一番左上から右へ6マス、下に1マスに「毅」


蕭・何「ショウカ」
「その他」の一番右上から左に6マス進み、そこの縦列にあわせて下に13マス進めば「蕭」
「か」の一番左上から右へ4マスに「何」


霍・去病「カクキョヘイ」
「その他」の一番右上から左へ4マス進み、そこの字の縦列にあわせて下に17マス進めば「霍」
「き」の一番右上から左へ5マス、下に6マスに「去」
「ひ」の一番左上から右へ1マス、下へ5マスに「病」


贏・政「エイセイ」←(この人は秦王の本名)
「その他」を選び、一番下の列までいってください。一番下の列は2文字しかなく、他は空欄になっているはずです。そこの空欄の一番右下から左へ7マス進んで一個上の字が「贏」
「せ」の一番右上から左へ6マス進めば「政」


白・起「ハクキ」
「は」の一番右上から左へ4マス、下3マスに「白」
「き」の一番左上から下へ3マスに「起」


成吉 思汗「チンギスハーン」関係ないけどテムジンは鉄木信と書く
「せ」の一番右上から左へ7マスに「成」
「き」の一番左上から右へ9マス、下に4マスに「吉」
「し」の一番左上から一個右下に「思」
「か」の一番左下から上に3マス、右に6マスに「汗」


陳・慶之・子雲
「ち」の一番左上から縦に6マス、横に1マスに「陳」
「け」の一番左上から縦に1マス、横に16マスに「慶」
「の」の一番左上から縦に1マス、横に3マスに「之」
「し」の一番左上から縦に1マス、横に14マスに「子」
「う」の一番左上から縦に2マス、横に10マスに「雲」




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上記に紹介した武将は全て名将で、能力も高いです。
しかし、どうして名将と呼ばれているのか解らなければ、ただ単に能力値が高く使える武将〜ということになってしまいます。そこで、紹介した武将がどういう経緯で名将になったのかという事を簡単に書きます。

「管夷吾伝」
まず特出すべきは管夷吾。通称管仲といいますが、彼は漢三傑のショウカよりも政治の才能があったと言えます。彼がいた時代の政とは法律を作るなどといったことではなく、神にお供え物をして豊作を願うというものでした。この政治方針を始めて「法律で規制する」ようにしたのが管仲です。彼が使えていた国は栄えに栄え、他国もここに攻め込むのを恐れました。しかし管仲が病で死ぬと王様は無能となり、生前に要注意人物と管仲に注意されていた人物を重用したため内乱がおこりあっけなく滅亡してしまいました。



「項籍羽伝」
彼はこの世で最も強かった豪傑と言えましょう。劉邦に負けてしまいましたが、彼の武は素晴らしいものでした。おそらく呂不よりも強い武勇を持っていたと思います。
彼は死ぬ間際、部下が一人もいない中2000人の軍団にたった一人で切り込み、一瞬の間に数百人を切り殺したのです。三国無双などではその実感が薄れますが、現実の世界で数百人を切り殺すのは神の領域です。この後、この軍を率いていたのが自分と同郷の者だったため「わしの首には万金がかかっている、同郷のよしみでそなたにやろう」と言い自害しました。自害した理由は、本拠地も落ちていてもう自軍の兵は一人も残っていなく、周りは全て劉邦の軍勢に囲まれていたためです。




「秦王・贏政伝」
彼は初めて中国を統一した皇帝です。万里の長城を築いた人物でもありますが、海を埋めたり宮殿アボウキュウ(阿保の語源とされる)の建造のために、中国大陸ほぼ全域から人を集めて作らせて、その建造費用のために膨大な税金がかかっていたため国民は悲惨なものでした。
しかし彼は政治の才能が無かったというわけではありません。少なくとも万里の長城建設は適切な判断と思われます。
さらに、統一前は各国でバラバラだった言葉やお金(この時に初めてちゃんとした通貨が誕生した)を全て統一し、荒地だった野原に道路を作り、辺境からの攻撃を守るために長城を作り、さらには海を生めて大幅に土地を増加させた(埋めた量は途方も無く膨大で現在の中国大陸の基礎を築いた)。
彼が生まれなければ現在の中国の歴史は完全に違うルートをたどっていたと言える。




「韓信伝」
彼は世界史的でも、その軍才は1位・2位である。
背水の陣などはこの時代では考えられないやり方で、また少ない兵力でも大軍を打ち破り、彼の用兵術、統率力、また厳しい訓練などもあり中国最強の軍団であった。攻めたところは必ず落ち、負けたことなど無かった。
他にも名だたる名将軍がいるが、韓信だけは郡を抜いた異才を放っている。



「陳慶之子雲伝」
国士無双の神将軍韓信に勝るとも劣らぬ希代の天才将軍。北魏から梁に亡命してきた北海王を洛陽に送り届けるよう命じられた陳慶之は、7000騎という小規模の部隊だけで、ほぼ単独で洛陽を攻略する。
簡略的に書いた7000騎による洛陽攻略であるが、その内容はまさに鬼神の如くでその軍事的功績は中国史においても最高水準とされ、その功績に見合う報酬は天下の珍宝をかき集めても足らなと言っても過言ではない。
以下に、簡略ながらもその内容を記す。
まず迎撃にきた北魏7万もの大軍勢を一日で壊滅させ、続いて北魏2万の軍勢が守る城塞を一日で陥落させる。 その後迎撃にやってきた15万もの北魏主力部隊を二十日かけて壊滅させる。またこの戦の中で、北魏の援軍として来た2万4千もの部隊が到着するが、それも1日で壊滅させる。そして洛陽の入り口である中国不屈の難攻不落の要塞「虎牢関」を三日で陥落させる。
陳慶之は洛陽入場までに、たった7000騎という小規模の部隊でありながら洛陽周辺の要塞・城をしらみつぶしに攻略し、野戦においては47連戦全てにおいて勝利した。これほど激戦を繰り返してきたにも関わらず、彼の率いる7000騎はほぼ無傷であったという点からも彼の才能の凄まじさが伺える。
その後、無事洛陽入場をはたした陳慶之であったが、北海王は北魏への警戒を怠ったために、洛陽攻略を果たしたにも関わらず再び北魏の侵攻を許してしまう。北海王の軍勢は一瞬のうちに壊滅したが、陳慶之はただ一人、自分の配下7000騎を率いて善戦、侵攻してきた北魏軍の部隊を片っ端から壊滅させ、北魏軍に対して甚大な被害を与えた。しかし敵軍は何十万という大軍であったために次第に追い詰められ、ついに陳慶之の軍勢は壊滅する。陳慶之は僧に変装して無事梁に帰還し生涯梁の防衛の要となって活躍する。
これほどの功績をたてながらも、彼自身は武芸は苦手で、矢を射れば的には当たらず、馬にも乗れず、ためしに部下の者と剣や槍で練習試合をしてみたが一度も勝てなかったという。この事実からして、さらに彼の戦術が凄まじかったことを物語っている。



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他にも隠し武将はありますが、いつか追加したいと思います。

結果

さすが名将 ガクヒは流石


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